第241回 命を預ける場所
人生という旅の途中で、私たちは時として荒れ狂う大きな川に突き当たることがあります。「重病」という激しい濁流です。向こう岸へ渡るために、私たちは自らの命を託す「橋」を選ばなければなりません。
一つは、近代技術の粋を集めた重厚な「現代医療」という石の橋です。この橋を信じる人は、「みんなが渡っている」「確かなデータがある」という安心感を心の支えにします。しかし、もしこの橋が崩れたとき、人々は「石が重すぎたのだ」「堅牢ゆえの脆さだ」と責めることでしょう。
もう一つは、古くからの知恵と伝統で築かれた「代替医療」という木の橋です。鍼灸もまた、その一つかもしれません。自分の直感や自然治癒力を信じ、木のぬくもりに身を委ねて一歩ずつ静かに渡ります。しかし、この橋が折れてしまったとき、人々は「あんな不確かなものに頼るからだ」と責めることでしょう。
逆に、無事に渡り切ることができたなら、石の橋を選んだ者は「常識に従って正解だった」と称えられ、木の橋を選んだ者は「強い薬や手術を避けたのが賢明だった」と称賛されることでしょう。
生死を分けるような医療の選択において、当事者である医師でさえ、どちらが正解なのか分からないのが実情です。むろん私自身も、「病院をやめて鍼灸にすれば助かりますか?」という問いを突き付けられたら、明確な返答などできません。医療の選択に、果たして正解・不正解はあるのでしょうか。
ただ一つ、私が確信をもって言えるのは、「人は自らが信じたものに救われ、自らが信じたものに抱かれて還っていく」ということです。多くの人はこれを「過ちへの警告」や「盲信の恐ろしさ」として捉えるかもしれません。しかし私は、もっと別の、抗いようのない「自然の法則」のように感じているのです。
数年前、私は両親を病院で看取りました。両親は鍼灸師である私をよそに、何かあるとすぐに病院を頼りにしていました。もちろん、それでいくつかの病を乗り越えてこられたからです。
最期の癒えぬ病で旅立った後、私はしばらく後悔の念にさいなまれました。現代医療の弊害を誰よりも耳にする機会の多い鍼灸師として、「あの処置は必要だったのか」「強引にでも止めさせた方が良かったのではないか」と自問自答を繰り返したのです。
しかし、今なら分かります。あれは仕方のないことだったのでしょう。両親は、自分が最も信頼を寄せる場所で、その生を全うしたのですから。
「人は自らが信じたものに抱かれて還っていく」
医療の選択という孤独で痛切な決意の先にあるもの、それは誰の評価も及ばない、静かな法則だけなのかもしれません。

第241回香肌文庫 2026.3.1


